どうもタバタです。
さて、この記事は私が日々感じる劣等感、それによる不安の影響についてつらつらと語っていきます。
まず手始めに、なぜ私が劣等感を抱え、不安になってしまうかをお話しします。
自らの可能性を見限っている
私は自他ともに認める、いわゆるダメ人間です。
馬鹿ですし、無能、それは甘んじて受け入れなければいけない事実です。
お上から与えられたものを順にこなし、そつなく物事を終わらせることのできる人間ではありません。
勉強もしないし、自己投資もしません。
自分に自信がないからです、無気力の自分がいるからです。
私はそれを妥協し、妥協した人生を送ろうと思っています。
事実、現在の生き方は妥協をしたモノであると勝手ながら感じています。
もし出来ることなら今すぐ街に出て、ナンパでもして彼女を作りたいのです。
しかしそれが出来ないのが私です、いつまでも独身で魔法使いになるのが夢なんだとか、言ってしまう自分だっています。
本音はよい結果を求めています、しかし現実にはそれが成功するのか分からないために現状に甘んじているのです。
こんな自分を変えられるのか、きっかけがあるかもしれませんが今のままではきっと変えられません
だとしたら向き合わなければなりません、それをどうやって受け入れてゆくか、とても大事なことだと思います。
無理なら別の事を考える、別の解決策を見つけるのは至極真っ当であります。
さて、また申しますが自分に自信がない(見限っている)。
しかしながら、妥協とは相反してしまうモノ、将来への期待を私は持っているのです。
自信がないのに
将来への期待、それは自分への期待ということに他なりません。
私は自分を見限っているくせに、将来への期待を持っている、つまり自分に期待してしまっています。
こういうところ、ダメ人間のダメ人間たる所以ですわね。
できるのではという自信はあるがこれまで大した結果を持たず、それがゆえに失敗を見越して自信がないふりをしている。
思いを持つものはあるが、決して表にできない。
まあでも、私がこんな考えをしていても普通に生きているのは『ままええわ』という感じで生きるようにしているからです。
それでも不安を感じることがあります、しょうがないことではあります。
変えたいという感情を無理だという感情で抑え込んでいる自分を、情けないと思う事もあります。
不安がる
私はよく、不安でたまらない時があります。
このままでいいのだろうか、他人が羨ましいために自分を評価してしまいます。
それで落ち込みます、自分がたまらなく嫌になる、そういう時期が周期的にやってくるのです。
まるで双極性障害です、躁と鬱を頻繁に繰り返す、かのマドンナもそうらしいです。
いやマドンナ様レベルではないでしょう、腐ってもこっちは一般人以下の人間ですし。
マドンナ様と同じ舞台に立てているわけではないです、双極性障害みたいだからってマドンナと自分を同一視してしまうのは辞めようね。
鳥居みゆきもネタの中に、ヒットエンドランという文言を入れています。
これはヒットを打つ鬱と、ランする走る躁をかけているらしいです。
こういうことを考えるととても気分が良くなります、悪い気分から解放されるのです。
自分の場合自己嫌悪から抜けきるのは早いので、これに双極性障害が適応されるなら極めて軽微な症状でしょう。
鬱状態の時には必死に自分を肯定する情報を受け入れようとします。
しかしなかなか収まらない、結局は自分が劣っている事実があるためです。
不安から抜け出すのは、徐々に徐々に行うしかないみたいです。
現在躁状態に近いため、こういった愉快な記事を書いていますが鬱っぽい状態になると書けません。
書きたいけどかけなーい、かなしいね。
この記事は自分がダメダメであるという事実を公表して、慰めてもらおうという魂胆があって書いたわけではありません。
こういうやつもいるんだな、と思ってくれるようにかきました。
あと、キーボードの反応が悪いのでいらいらしながら書きました。
おわり