常々想うことがある。
それは自分のことについてだ。
感情が溢れる
それは細分化されていないもので、言葉では言い様のないものだ。
様々な色があり、混ざるようにして渦巻いているが決して交わることはない。
一つ一つの感情は他とは全く相容れない。
こうした色は外的なものから影響を受け、日々追加されあるいは取り除かれていく。
一度抜けた色は形としてはもう保ってはいないが、存在していた記憶として頭の片隅に置かれていくのだ。
そして人は常に他人との接点を持っているものだから、往々としてこうした好循環のもとで生きているのだ。
しかしこの私にとっては老人が針に糸を通すより困難なことだったらしい。
生来から他人との繋がりというものが希薄で、平らに引き延ばしたところでティッシュよりも価値がないほどにまで、あまりに無い、皆無だ。
他人からの尊敬や賞賛、自分を認めてくれる発言が自分の耳に入ってくることは無い。
またそれらが生まれる余地すらも他人に与えていない程、自らの存在が大きくないことを自負している。
私はこれまで、他人の感情や視線を大きく受けずに生きてきたように思う。
それは実に悲しい生き方で、まるで井戸に落ちた蛙である。
一生を他人の批評から逃れて生きていくのは、まさに人類としての最も大きな強みの一つである向上という行動が出来ないことを意味している。
私は自分が天才でないことも、凡人でないことも理解している。
天才であれば有象無象とは関わらずとも大した結果を残せるし、そうでなくとも大きい結果が期待できる。
更にあるいは凡人でさえいつかは秀でた結果を持つことさえあり、現代の社会はまさに凡人が支えている結果だ。
凡人がいなければ生活は成り立たず、天才がいなければこれ以上の発展はありえない。
さて、その二つの人種がいるとして、ここで私はなんという人間と呼ばれるだろうか。
そう、底辺のもの、高卒底辺のものである。
形容しがたき名状が困難な不定不安なこの世に不要なものの粋を集め出来た塊である。
高卒であればまだいい、中卒、それ以下でもまだ良いのである。
自分には高卒【底辺】という称号しかない
皆々様にはさぞ素晴らしい世間一般に向ける自分を表す適当な称号があることだろう。
しかも憚らずに言えるだけでなく他人からの羨望を集めるほどに素晴らしいものを持つ人もいることだろう。
私にはそれがない。
それがないことはどういうことだろうか、考えてみてほしい。
つまりは私には誇れるものが何もなく、他人からの羨望や尊敬を集められず社会から孤立した人間であるという思いが加速していくのだ。
そしてそれを認めた時、何ができるだろうか。
私である、底辺の称号が付いたモノが生まれるのである。
これは困難を認めようともそれをどうとも捉えず、ただ流され生きていくことを意味する称号だ。
他人に嫉妬し、羨望と尊敬をもちその生き方を模倣したいとも思う。
だがその時に呪いというまでに昇華した自分の称号のせいで、圧倒的な敗北感を味わうのだ。
戦わずして負けていた、そう思ったとき私は、気分がどうしても落ち込むのである。
救いがない、救いようがない
ただ自分としては、これは問題として今後も向き合う事だと思っている。
他人からどう思われようとも、自分がどう変わっていくかは自分次第なのである。
自分で自分を褒めたたえ、時には罵倒し、時には慰めることが必要である。
それが私にとって、最も合っている。
とどめめようのない焦燥のせいで、濁流のような意識にのまれる。
感情に任せて動くことを悪くは思わない、むしろそうしなければ私のようなものは動かざること山のごとし、押しても引いても動かないポケモンのカビゴンのようなもの。
変わったことをしなければ変えようがない。
私は本当のことを言うと、株式などに興味がないのかもしれない。
適当に銘柄を購入して、その後自分と合わなければ売り払うだけでいいのだから。
これには研究の余地はなく、ただ淡々と行うだけでいい。
かつては自分に活を入れ、将来のために堅実な方法として投資を選んだつもりであったが今となってはもはやそれもただの方便でしかない。
金の不安をなくすため、ただ惰性でやっている。
薄氷の上で惰眠をむさぼり、季節が変われば氷は溶ける。
安全はもはやただの水となり、水溜まりの上で醜態を晒すほどしか能のない私はいずれ淘汰され、また新たな草原への養分として生きるかもしれない。
それもしょうがないだろう、私にとって、人生とはもはや棒を倒してから進む方向を決めるものになってしまった。
猿でしかない、私は完全なる退化を遂げ、いつかは人から猿になるであろう。
モンキー、そういえばモンキーマジックっていいよね。
おわり