どうもタバタです。
株クラの皆さんは連日燃え上がり、悲鳴と歓声を上げています。
あちらこちらで個人の思想が発言され、あたかもそれが自分の考えであるかのように受け取られることもあるかと思います。
自分の考え方が他人と比べた時、まず間違っていないかを疑う事はおかしくありません。
そして自分の考えを全く別のものへと向かわせてしまうことも、それが悪いことだとは感じません。
自分がとってしまった行動には必ず何らかの理由があり、それがいかなるものだとしても自分にとって理由になってしまうものなのです。
そして私が決断を下したあの時も、今となってみれば異常な値動きに対して少なからず影響を受けていたとしか考えられません。
私にはこんな考えもあります。
これって暴落なのか?
「 こんなの暴落じゃないわよ」おばさんはいいました。
なるほどそうか、これは暴落ではなく暴落という現象に似た余りにも影響を感じ取れない程度のものなのかと、私はそう受け取りました。
しかし時は矢のように流れます。
最近ではこの程度では暴落ではないおじさん、おばさんもすっかりと鳴りを潜めています。
代わりといえば、リーマンショックと比べるインテリが出てきました。
私ははっきりとはわかりませんが、今回のコロナショック(仮)は間違いなく暴落であるということになるのでしょう。
今回私が思ったこと
私は暴落なんて期待していなかった、そんな風にかんじます。
たとえ強がって、暴落というものを体験して自分の相場に居座り続ける胆力が素晴らしいことを武勇伝として語りたいがために、ただ強がっているだけであった自分でも。
間違いなく日々の下落に対しては不快感を持ち、あるいは恐怖の感情をもって臨んでいた、そのように感じます。
しかも私は目先の数パーセントの利益に対して異常、あるいは想像を絶するほどに執着を持っていることに気づきました。
いくら将来的なリターンが分かっていて、それが殆ど確実にもたらされることだと確信があってもなお、私にとって日々の数パーセント、これがどんなに自分の心を揺さぶるのか理解が付きました。
私という人間の行動する理由と、それがどんな思いによって起こされたか。
おおよその見当が付けられるようになった、これはいい経験値になったといえます。
他人が今からしようと思っていることについて思う事
狼狽売り
狼狽売りを経験した身からして、狼狽売りは決して間違った選択肢というわけではありませんでした。
たとえ自分の売ってしまった所が底だとしても、今回の経験とその後の値動きを見て自分の今後の行動に対してある程度の諦めを持つことが出来ると思います。
大切な人からの助言は聞き入れましょう、それはもしかしたら自分にとって素晴らしい結果を齎す簡単なことかもしれません。
受け入れられなければ、それは自分の間違いを認められずにいるか、自分の考えと正しく符合した行動が出来ている証拠です。
ガチホ
投資家にとって、過去最高に利益を出すことの出来る最も簡単な方法の一つに、死ぬことがあります。
こんなことを言うのもなんですが、私は株価が下がっているという話だけ聞いて、数字は気にしないようにしました。
数字が読めなくても株は出来ます。
文字が読めれば株は出来ます。
含み損を持ち続けるのは辛いことですが、その教訓を正しく後世に伝えられる素養のもった人種になることは間違いありません。
最後に
今回の暴落は待ち望んでいたことではない、それは間違いありませんでした。
あんなにイキり高ぶっていたのがうその様で、すでに心は凪いでいます。
願わくばこのような暴落が、私のセミリタイアした直後に怒らない事を願って。
今ここに、教訓としてこの記事を書いておきます。
おわり